日本ところどころ⑭ 四万十川 揚水式ダム

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標高1000m吉野川上流の稲村ダムサイトの山桜 2012.05.05以下同じ

敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花

と詠んだ本居宣長は生前に自分の葬儀から墓石の置き方まで細かく指示している。お墓の傍に植えるのはもちろん朱色の葉と一緒に咲く山桜だ。朝日に「匂う」という動詞は山桜を最も美しく見せる光の角度まで教えてくれる。(あいにく当日は曇り空だったが)パッと咲いてパッと散るのが桜の潔さだけれどバイクで走り廻っているうちに高度と緯度をずらせば桜は長く愉しめることを知った。

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5月の山には至るところに春がある

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赤と緑の組み合わせがかわいい

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斜光線に映える躑躅

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土留めに苔の緑

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赤い実に光が落ちた

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杉にからまる蔓の葉アート 

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マイクロドラゴン

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アケボノツツジ

躑躅に霧がもつれると吹雪の中の白雪姫になる。写真展でよく見かける幻想的な構図だが、見るのは簡単でも撮るのは骨折りだ。これは手抜きの絵。

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標高1500mの稲叢山から見た稲村ダム2012.05.05

その昔バイクで山道を走っているうちに道に迷った。怪しいなとは思ったが迷子になってもどこかで国道にぶつかる。ままよとつづら折りの坂道をかなりの高さまで駆け上がると視界が開けて湖が見えた。山の向こうに青空が広がり、空と森に包まれて鳥の声が聞こえる。すり鉢に水を溜めたような湖面は周囲の山の高さと比べてちぐはぐなほど広い。天空の湖にはどこから水が供給されるのだろうと不思議に思って看板を見ると、ここは伊方原発の余剰電力を使い、下のダム湖からポンプで水を汲み上げる揚水ダムなのであった。

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黒色変岩を積み上げたロックフィルダム外側2012.05.05

原発は昼も夜も100%の出力で運転しなければ危ない。昼間はよいが電力需要が下がる夜の電気をどうするかが問題で、庶民は深夜電力を使って風呂の湯を沸かしたりもするが、そんなことでは余剰電力を使い切れない。そこで考案されたのが電力需要に合わせて水を上げ下げする揚水ダムだ。原発で電気をつくり→ポンプを回して水を揚げ→水を落として電気をつくる。この湖はダムなのか巨大電池なのか、原子力発電所なのか水力発電所なのかよく分からないところがある。

伊方原発で出力調整が行われて物議を醸した1980年代に同原発の中央制御室を見学させてもらった。来客は珍しかったとみえ壁に置かれた無数の計器盤の前で特にすることもなさそうな操作員が一斉にこちらを向いた。「これが出力調整の計器です」と説明されたが、どこにでもある針付きの文字盤を見せられてもピンと来ない。ボタンを押すと同時に原子炉に制御棒が差し込まれ炉の熱が急激に低下するといったビデオでも見せられないかぎり素人に出力調整の意味は分からない。

見学の本当の目的は伊方原発1号機56万kwが回す発電機を見ることであった。建屋の中では原子炉発の蒸気で回転力を得たダイナモが大音響でぶん回っているにちがいない。さぞかしデカイ装置だろうとわくわくしながら入ったが、床の上に体を半分あらわしたカマボコ状の発電機は意外に小振りだった。タービンを回した後の蒸気は海水で冷やし液体に戻す。そのため原発には膨大な海水が取り込まれ温排水として排出される。排水口から川のごとく流れる水は海水温を上げるほどだ。

その伊方原発は2018年7月現在1.2.3号機とも運転を止めている。1号機は廃炉、2号機は廃止、3号機は停止状態である。火力の電気で水を汲み上げるバカはいないから稲村ダムは今じっと身をひそめていることだろう。問題は3号機だ。

2017年9月12日伊方原発1号機で廃炉作業が始まった。「作業は40年かかり407億円の費用*」が見込まれるという。*産経west 2017.09.12

2018年3月27日には伊方原発2号機の廃止が決定された。「タービン建屋の耐震補強、非常用海水取水設備の作り替えなど大規模かつ長期間を要する耐震対策工事が必要となるなかで、再稼働した場合の運転期間、出力規模など様々な要素を総合的に勘案*」した結論である。*四国電力㍿「伊方原発2号機の廃止について」2018.03.27

 

伊方原発3号機、運転差し止め

2017年12月22日広島高裁は、2018年9月30日まで伊方原発3号機の運転を差し止める仮処分を決定した。原発から130キロ離れた熊本県阿蘇カルデラ破局的噴火で火砕流が到達する可能性を指摘し、立地不能と判断した*」という恐ろしくもユニークな理由からである。*毎日新聞2018.03.22

 

カルデラとは何か?

鹿児島湾の桜島北部は姶良カルデラの名残でもある。その姶良カルデラは2万9000年前に破局的噴火を起こした。噴煙柱は成層圏に達し、やがて崩れ時速100㎞で走る灼熱の火砕流となって半径70㎞の大地を埋めつくした。偏西風に乗った火山灰はわが高知県宿毛市に20mの厚さで積もり圧縮されて2mの地層を残したというからハンパない。

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上野原遺跡資料館2013.07.23

鬼界カルデラは、2015年に噴火し全島避難を余儀なくされた口永良部島、2013年に噴火した硫黄島竹島屋久島に囲まれた海底にある。その鬼界カルデラは7300年前に破局的噴火を起こし、鹿児島県霧島市上野原に遺跡を残す縄文文化を壊滅させた。アカホヤと呼ばれる鬼界カルデラの火山灰は数メートル積もり九州や四国の縄文人を死滅させたという。 

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阿蘇中岳の噴火2014.11.30早朝

山のてっぺんから濛々たる噴煙が沸き上がる光景を始めて見た。遠目に見れば阿蘇中岳から昇る一筋の煙に過ぎないが、望遠レンズの向こうで生きものの如く成長し上昇する黒い球体はビデオで見た核爆発を想起させる。ふと遥か彼方の外輪山で囲まれた阿蘇カルデラ全体から火と煙が吹き上がればどうなるかと想像して恐ろしくなった。

 

阿蘇は過去4回破局的噴火を起こした。とりわけ9万年前に起きた最後のカルデラ噴火は規模が大きく、火砕流は九州全体を覆い、海を超え山口県や四国まで到達し、火山灰は遠く北海道まで降り積もったという。直径25㎞の円内から地中のマグマを吹き上げ、やがて陥没して出来たのが今の阿蘇である。4度あることは5度ある。それが問題だと広島高裁は結論付けたわけだ。

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巽好幸「地震と噴火は必ず起こる」新潮選書p176より

「超巨大噴火が九州中部で発生したとする。~中略~一両日の内に日本列島全域に降灰が及び、北海道を除く地域では10㎝以上の火山灰が降り積もる。この範囲に暮らす1億人以上の人々は一瞬にして日常生活を失うことになるであろう。浄水場の沈殿池の能力は限界に達し給水は不可能となる。~中略~火山灰の重さは約2倍にもなり、送電線の断線による電力喪失や家屋の倒壊も起きる。交通機能は全て麻痺、農作物はほぼ全滅し、森林も壊滅的打撃を受ける。~中略~日本喪失以外のなにものでもない」同書p177

 

火山活動に文明は対抗できるか?

火山灰がわずか1㎝降り積もっただけで鉄道は信号障害を起こし、空港は閉鎖され、停電、断水と続く。いずれは噴火する富士山が山から煙を吐いただけで東京文明がどこまで耐えられるかまだ誰も知らない。ましてやカルデラ破局的噴火に現代文明が対抗できるかといえば普通に考えて出来ない、ことを著者自身が矛盾した筆で描いている。「まず私たちが覚悟を持ち、その上で共に生きてゆく術を探すこと、そしてその思いを分かち合うことが大切である」(同書p195)と意味のない抽象論が置かれて本書は終わる。これほどの破局的噴火が起これば対策の打ちようがない。人間は諦める他ないのだ。

 

破局的な噴火が起これば原発どころか日本文明の崩壊につながる。噴煙が地球規模の気象異変を引き起こせば人類史的な影響も想定されよう。火に焼かれ灰に埋もれた原発はやがてメルトダウン放射能をまき散らす。伊方原発3号機のプルサーマルで使われるMOX燃料には半減期24000年のプルトニウムが混ぜられている。半減期を10回繰り返して初めて生命活動が安定すると仮定すれば、次に四国に住むヒトは24万年後まで待たねばならない。その間に阿蘇カルデラでは次の噴火があるだろう、、という虚しい空想を余儀なくされる。

 

160㎞向こうにある阿蘇カルデラ破局的噴火で火砕流が」伊方原発に到達するかもしれないから再稼働させないという広島高裁の論理には普通に考えて無理がある。危険は火砕流に限らない。地震津波、経済的破綻、軍事的な不安定も大きな脅威だ。そもそも次の破局的噴火が百年後なのか一万年後なのか誰にも分からない。誰にも分からないことが問題になるとすれば人間はどこに住めばよいのか? それが裁判の中心課題であるとは思えないのである。

 

すると広島高裁は何を狙ったのか? 

4つのプレートがせめぎ合う日本列島は地殻変動の巣であり普通に考えて原発を置く場所はない。2016年4月の熊本地震では伊方原発のある佐田岬半島の延長線上で別府、熊本に連なる断層を揺らした。先日、地質の専門家に「裁判の本質は、火砕流ではなく、中央構造線(大断層)にあるのではないですか?」と問うたが、「いや裁判では中央構造線については全く触れられていません」とのこと。中央構造線を無視して火砕流を論ずる広島高裁は何を考えているのだろう。

 

プルサーマルか?

2011年の東日本大震災後、全国58基の原発が停止した。だが2017年には玄海原発3.4号機、高浜原発3.4号機、川内原発1.2号機、大飯原発3.4号機、伊方原発3号機が、安全審査を通過し、再稼働した。9基に共通しているのはウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を使うプルサーマル発電を予定していることだ。

 

ぼくの推論にすぎないが、

3.11のあと原発再開のための安全審査が厳しくなり経済整合性がとれなくなった。儲からない事業から撤退するのは企業として当然の措置だが、国には別の論理がある。問題はプルトニウムだ。

 

国は再処理を経て抽出したプルトニウムを「ふげん」「もんじゅ」といった新型転換炉・高速増殖炉で再使用しエネルギーの循環を図る予定であった。だが技術的に失敗し両炉とも電気をつくることなく廃炉が決まった。今は廃炉そのものの困難にぶつかって立ち往生している。

 

既に溜まったプルトニウムは原爆6000発分に及ぶ。その気になれば日本は短期間に核爆弾をつくる技術がある。固形燃料ロケットは開発済みだ。今の日本人は自分を平和主義者だと信じて疑わないが、何かの拍子で考え方を変えるかもしれない。かつて日本は武力を海外に向け、あのアメリカと正規戦を戦った唯一の国でもある。その国に大量のプルトニウムが溜まるのは危ない、と外国人の目には映るのではなかろうか。

 

日本国としては、そのような危惧を解消せねばならず、厄介なプルトニウムは何としても減らさねばならない。そのためには再稼働した玄海原発3.4号機、高浜原発3.4号機、川内原発1.2号機、大飯原発3.4号機、伊方原発3号機でMOX燃料を使おうとしているのではないか?

 

ところが強い毒性を持ち、核分裂が容易なプルトニウムMOX燃料として軽水炉で安全に扱うことは難しい。事故を起こせば通常の核事故を超える被害が想定されることからプルサーマルの危険性を指摘する向きも多い。

 

のみならず伊方原発中央構造線という巨大断層のすぐ傍にある。「四国電力によれば原発敷地の沖合8㎞先を通っていると主張するが、わずか600m沖にあるとの疑念が急浮上した*」*週刊金曜日161021 核に敏感な広島高裁は、核事故が起これば通常の原発より更に危ないMOX燃料に警鐘を鳴らしたのではないか?

 

司法の限界?

2018年7月4日名古屋高裁金沢支部は、大飯原発3.4号機の差し止めを命じた一審判決を取り消し運転を容認した。興味深いのは判決文が法制度にも言及し「原発の廃止・禁止の当否の判断は司法の役割を超える。国民世論として幅広く議論し立法府や行政府による政治的な判断に委ねられるべき事柄だ」(180705日経新聞) と指摘していることだ。一歩間違えれば事故は国家の存亡に関わることを我々はフクシマで知った。その社会的意義をどう捉えるかは司法の領域を超える。国民、議員、官僚それぞれの責任で考えてくれというわけだ。

 

伊方原発3号機に関する広島高裁の真意は不明だが、ヒロシマは核と放射能に敏感な土地柄でもあり、とりあえず2018年9月30日まで運転は差し止められた。嫌味な見方をすれば、9月までは停止だけれども「四国電力が同高裁に申し立てた異議審」がどう判断するかは知らないよと広島高裁が最終的な判断責任は追わないことを前提にしているかのようでもある。原発という国家の大問題に対し司法の領域はそこまで広くないのであろう。ぼくは9月以降、伊方原発3号機の再稼働は容認されると見ている。

 

元首相2人の真意は?

あの小泉純一郎が今や反原発の最先鋒だから世の中変われば変わるものだ。フクシマ後の2014年に細川護煕と組んで都知事選を争い、なぜかメディアは全く触れないが、その後も一貫して反原発行脚を続けている。在任中は推進、離任後は反対という変わり身のすばしこさは言うまでもなくフクシマを見てしまったからであろう。立場が自由になったから正論を吐けるのだとシニカルに評することも可能だが、元首相という立場を引きずりながら、かつて原発を推進した自分の間違いを認め、全廃せよと訴えることは勇気の要る行為ではなかろうか。原発の存廃は政治が判断せねばならないとする小泉元首相は、光、風、地熱、バイオマスに期待を寄せる。

 

除染とは何か? 

2016年11月、当時フクシマで除染作業に従事していた知り合いと組んで「環境とエネルギーを考える座談会」を開いた。除染作業とは、放射能で汚れた土を剥ぐ。運ぶ。きれいな土を被せる。道路脇20mまでの下草を刈り取る。袋に詰めて運ぶ。この作業の繰り返しだ。だから除染は「移染」だというのが彼の持論なのである。

 

残念ながら大地に撒き散らされた放射能を草木もろとも剥ぎ取って持ち去ることはできない。せっかく作業をしても雨が降れば山から放射能が降りて来る。現場で働く人には酷な言い方だが、小石を積んでは鬼にこわされる賽の河原のようである。

 

その座談会の目的は、除染の現場で働いた知人を交え、参加者各々が原発の意味を考えることにあり、とりたてて反原発を訴えるものではなかった。というより座談会を提案した自分自身いまさら原発を否定することに意味があるのかないのか分からなくなったのである。原発は造ってはいけないものであったが造ってしまった。起こしてはいけない事故が起きてしまった。日本の海岸線に54基並ぶ原発を一時的に停めることはできたが、棄てることはできない。そこを起点に考えたとき対案のない反対運動は無責任だと思うのである。

 

かつて原発が夢のエネルギーともて囃されたころ大学工学部原子力工学科には第一級の頭脳が集まった。いま原子力は不人気で大学に「原子」を含む学科はわずか3大学しかない。大学院には東大、東工大、京大を含めて8大学あるものの名称は「原子力国際専攻」「原子核工学専攻」「原子力システム安全工学専攻」等、原子力工学原子力発電のイメージを微妙にぼかした名称になっている。

 

世界には原発が450基もある。もはや人類は引き返し不可能地点を超えてしまった。進むにせよ退くにせよ原子力産業にはすぐれた頭脳が絶対に欠かせない。フクシマの事故処理には何世代かに渡る手当てが必要だ。後ろ向きの研究ではあるが若者にそっぽを向かれたら国家が成り立たないのである。

 

小泉講演の要点

小泉純一郎の講演録には「原発は安全で、コストが一番安くて、クリーンエネルギーだ。推進論者が言っている3大スローガン、これは全部うそだと分かった」とある。(このあたりネットを探れば資料は山ほど出てくるのでご興味のある向きにはぜひお調べいただきたい)核の平和利用という美しい言葉は、核兵器の製造を裏返した表現にすぎない。所詮は軍事の余剰利用であり、原発は危険でコストがかかって汚いというのが真実だ。

 

ではなぜ日本に原発を持ち込んだかと言えば、将来的な核武装という思想も政治の片隅にはあったのだろうし、何より事故と放射能を無視すればこれほど素晴らしいエネルギーはないからである。農業世界では毒を指して薬と呼ぶ。原子力業界では危険のかわりに安全という言霊が置かれる。事故を想定せず、40年後に始まる放射能処理を無視すれば原発がつくる電気は驚くほど安い。

 

総括原価方式

その原発を制度的に支援したのが電気料金を決める「総括原価方式」だ。すべての費用を総括原価とし、その上に一定の報酬を上乗せして電気料金が決められる。経費に利益を上乗せし全国民から半強制的に電気代を徴収できるのだからこれほど楽な商売はない。というよりこれは自由主義の商行為ではない。事故が起きようと廃棄物処理でいかなる経費が加算されようと事業体はびくともしない不道徳な法律なのである。

 

Google Mapでフクイチを見ると汚染水タンクがずらりと並び今なお大変な作業が続いていることが分かる。フクシマはネガティブな言霊を被せられ県名まで汚されてしまったわけだが、実は汚れたのは福島県だけではない。2013年にフクイチ前の浜通りを抜け、栃木県日光市中禅寺湖にたどり着いたとき、釣ってもよいが持ち帰ってはいけないという看板を見て戸惑った。魚種にもよるが汚染は今でも続く。放射能は軽々と県境を超えたのである。

 

放射線量を表す様々な数値が現実に何を意味するか人類はまだよく知らない。強い放射線をまとめて受けた場合と弱い放射線にじわじわ曝された場合の違いもまだ良く分かっていない。だからこの魚は食べてもよいがこの数値以上の魚はダメだと言われても人体実験したわけではないから基準の意味は誰も知らない、、等々原発放射能の話はどこまでも拡散するが、この辺で一旦整理して終わりにしたい。

 

(主観を含めた)まとめ

4つのプレートがせめぎ合う日本に原発を置ける場はない。
放射性廃棄物の捨て場は原理的に存在しない。
再稼働のテーマはプルサーマルであろう。
造ればつくるほど子孫は迷惑する。
手の打ちようがない問題は爆弾ゲームのごとく先送りされる。
司法、立法、行政とも責任回避する。
メディアは忘れっぽい。
電気料金を総括原価方式で請求できるかぎり原発は止まらない。
もはや引き返し不可能地点を超え、推進と反対が同じ課題を持つに至った。

 

180716記

Aiさま某編集長さま

暑さ日本一の四万十川から暑中お見舞い申し上げます。
本気の夏になりました。予定では再び四万十川に戻り、梼原町のお神楽を考えて四万十川シリーズ、といっても何がシリーズなのか自分でもようわからんところがありますけど^^! は終わり、台湾旅行の目的であった八田与一の烏頭山ダムに戻ります。誰もが期待した難工事に有らん限りの情熱をかけた土木家とその妻の物語に胸を打たれ昨秋ふらふらと出かけた次第です。今日からしばらく夏休みです。ではまた。

日本ところどころ⑬ 四万十川 漢江上流の任南ダム平和のダム津川ダム、鴨緑江の水豊ダム

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韓国江原道の平和ダム2010.08.12

日本のダムは治水、利水、発電の3目的に限られるが、朝鮮半島では「水攻め」兵器としての役割もある。漢江上流のダムが意図的に放流されれば大量の水が下流域を襲いソウル市は壊滅する。

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平和ダムの機能をイラストで説明した案内板2010.08.12

ソウルオリンピックが開催される2年前1986年に漢江の上流、非武装地帯DMZの北側に任南ダム(金剛山ダム)が着工された。1987年の大韓航空機爆破事件と同じくソウルオリンピックの単独開催を阻止するためと言われる。

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案内板(同上)

任南ダム200億トンの水に襲われればソウル市はひとたまりもない。そこで韓国は軍事分界線の南側に放流水を受け止める「平和のダム」を建設したのだが、やがて200億トンは盛りに盛った数字であり実際はその1/8程度の貯水量であることが分かった。

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案内板(同上)

すると今度は衛星からの偵察により、急ごしらえの任南ダムに決壊を予想させる亀裂が見つかった。新たな危険が検知されたことから平和のダムは土盛りを追加し、2005年に堤高125m堤頂長601mの巨大ダムが完成した。 

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平和のダム上流側2010.08.12

写真は完成後5年目のものだ。通常のダムは貯水を前提とするが、このダムは非常時の止水用であって普段は水のない乾留ダムである。基底部からの高さがもろに見えるので高さ幅とも圧倒的だ。

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平和のダム 2010.08.12

水を貯めない「平和のダム」は何も生まない。これは投資が再生産につながらない軍需産業なのである。案内してくれた友人はしきりに「政治ダム」と呟いていた。

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1951年5月米軍によって雷撃される華川ダム(Wikipediaより。転載不可であれば直ちに消去します)

平和のダムの下流部には先の大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)が終結する前年1944年に日本人の手によって完成した華川ダムがある。1951年4月「北朝鮮軍と中国軍はダムの余水路から下流へ超過放流を行い、国連軍の5つの浮橋を使用不可能にした*」ことから同年5月米軍はMk13魚雷8本を使用し余水路水門にむけて攻撃した。「この攻撃で水門の一つを破壊し他のいくつかも破損させて洪水の脅威をやわらげた*」という。Wikipedia

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中国と北朝鮮の境を流れる鴨緑江の水豊ダム(Wikipediaより同上)

熊本県出身の事業家野口遵したがうとダム建設技師久保田豊が組んで、白頭山を水源とし、中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江に完成させた水豊ダムは、華川ダムと同じ1944年に竣工した。堤高106m、堤頂長900m、たん水面積は琵琶湖の半分ほど、10万kwの発電機×7基=70万kwという当時世界最大級の発電能力を誇った。水豊ダムの発電所は今も現役であり、電力は中国と北朝鮮が折半している。

 

その水豊ダムも「朝鮮戦争中に雷撃を含む、アメリカ軍機の攻撃を受けたが、ダム構造が堅牢であったため決壊を免れた*」ダムは武器であり武器は破壊攻撃を受けるという事例でもある。 重力式ダムは滅多なことでは壊れないであろうが、コンクリート厚が薄いアーチダムが悪意にさらされたらどうなるのだろう。縁起でもない話だが、巨大な弧が美しい黒部第四ダムが攻撃され決壊したとすれば下流域の3つのダム湖が受け止めるのだろうか。それとも濁水塊は下部ダムを乗り越え黒部市を襲うのだろうか。*Wikipedia


「久保田がつくった電力を使って野口は、肥料、アルミニウム、化学せんいなど次々と事業を大きくしていきました。しかし、昭和19年、太平洋戦争のさなか、野口は死亡し、その後を久保田は受けつぎましたが、昭和20年に敗戦をむかえました。久保田は、朝鮮にいた日本人の引き揚げや帰国の世話をした後、25年間の仕事ぜんぶを朝鮮に残し、何一つもたずに熊本に帰ってきました*」(土木の絵本「海をわたり夢をかなえた土木技術者たち」青山士・八田与一、久保田豊

 

その後の久保田豊は土木コンサルタントとしてアジア・アフリカ各地に足跡を残すことになる。青山士あきらの「荒川放水路」、八田与一の「烏山頭ダム」と並んで巨大土木が文句なしに人々の幸福につながった土木家冥利につきる時代であった。


さて話を四万十川に戻そう。先日土木関係者に会う機会があり、かつて大野見村に計画していた幻のダムの発電量67万kwについて尋ねたが、いくら関係者でも造られなかったダムの発電量のことまではご存じないようであった。それにしても琵琶湖の半分ほど水を貯めた水豊ダムが70万kwを可能にしたのであれば、「大野見村の大部分が水没し、松葉川村や梼原町まで被害が及ぶ」ことまで想定した「栗の木ダム」「久万秋ダム」もまた67万kwの電力を生み出したのかもしれない。とはいえ琵琶湖の半分を指で挟み地図上で四万十川上流にカットアンドペーストしてみるのだが、湖水に沈んだ大野見村、津野町梼原町などという図はぼくの想像力では追いつかない。

 

2018.06.12朝9:00記

日本ところどころ⑫ 四万十川 津軽ダム

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*青森県弘前市の林檎園141029

東北各地にリンゴはいくらでもあるけれど何故かリンゴは青森という強いイメージがある。さほど大きくない木に枝も折れよと言わんばかりの数が成り、よく手入れされた圃場にリンゴ農家の執念が見える。ぷりぷりのリンゴのお尻まで赤いのは木の根元にアルミの反射板が置かれているからだ。

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*秋田県鹿角市りんごの花130526

種子はなぜ果肉を身にまとうのか? 発芽時の養分になる。消化管を通して発芽を促す。鳥を介して遺伝子を遠方に運ぶ等とり立てて反論しにくい説明があるけれど、どこかダーウィン好みの生存戦略が見え隠れしてさみしい。花は咲きたいから咲き、蜂は遊んでいるのではないだろうか。

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*収穫途中の林檎園141030

観光旅行のチラシは名所、温泉、料理の3パターンで客を誘う。不特定多数を相手の企画だから冒険できないことは分かるが、花見と紅葉狩りで集客を狙う期間限定の旅だってあるわけだし、川面に霞が立つころ「リンゴの花ほころびツァー」とか岩木山頂が白くなったころ「赤いほっぺの林檎とれたてツァー」があってもよいようにと思う。北の旅行客には南のクニで「収穫作業をちょっとだけ手伝う紀州蜜柑の旅」とか「高知文旦山積みの卸売市場5時集合セリ見学の旅」なんてのが受けるかも、、

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*こごみ(草蘇鉄)130521

青森の道の駅でコゴミの和え物を見付けてちょっと迷った。知らない食べ物には抵抗があるけれど大きなワラビみたいなもので美味い。コゴミのぜんまいが開くと放射状のデザインが生れる。知り合いの陶芸家に写真を見せたら味も形もよく知っていた。この世でいちばん楽な職業はデザイナーかもしれない。スケッチブックを持って野を歩けばパクリの材料は無限に存在するからだ。にもかかわらず東京オリパラのエンブレムで困り果てネットで泥棒するなんて愚かな話だと思う。

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*青森県白神岳の麓十二湖の杜130521

東北の秋は文句なしの錦の絨毯だが春の野山も劣らず美しい。スギとヒノキばかりの四国の山とは違う風景で、額田王の春秋優劣論を蒸し返せば、やっぱり春の方がよいかなと迷ってしまう。誰が言い出したのか知らないが、森林浴という名の緑の温泉で、ほこほこの土を足の裏に感じながら歩くと元気が出る。むかし高知の某町で森林セラピーを売り出した。地元テレビによると医学生を呼んで血液検査だか何だかをやったら森を歩いた後は好ましい数値が見えたという。そんなことあたり前じゃんかと思うのだけれど特に反論する理由もない。

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*青森県西目屋村白神山系の津軽ダム141030

春の津軽富士=岩木山を見ながら岩木川に沿って弘前市を西へ走ると西目屋村に入る。そこにある小振りのダムが目屋ダムだ。ダム湖が手狭になったので、目屋ダムを覆うような大規模ダムが計画され、写真をとった2年後の2016年に津軽ダムが竣工した。そんな事情を何も知らず白神の入口、暗門の滝に向かう途中、突然現れたコンクリート塊が目に入り、おっと要塞かよと驚いた。

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*目屋ダムに覆い被さるように建設される津軽ダム141030

目屋ダムがつくる湖は美山湖と呼ばれたが、1993年に屋久島と並んで白神山系が世界自然遺産に指定されたこともあってか、美山湖の名を廃し、新しいダム湖津軽白神湖と命名された。戦後復興期に計画され、1959年に竣工した目屋ダムは57年後の2016年、津軽ダム竣工と同時に水の底へ消えた。

ダムの寿命は堆砂によって概ね50年と言われる。コンクリートにも寿命があり70~100年で劣化するというから日本のみならず世界中のダムが危険水域に入ったと見て良いだろう。寿命が来たダムをどうするかは悩ましいテーマだが、津軽ダムのように既存のダムを凌ぐ大きさのダムを追加するのもひとつの手ではあるのだろう。ただし当然のことながらダム湖は広がり水没する集落の人々は反発する。

目屋ダム建設に際し、下流域の受益者は水没域の住民の苦難を慮って「コメ一握り運動」を起こした。教師の初任給が1万円ほどの時代に「義援金代わりのコメは金額にしておよそ150万円に上った」という。そのことに心を打たれた移転住民は「津軽平野住民の悲願を達成するために住み慣れた故郷を離れるという苦渋の決断をした」わけだが、今次「一部の住民は津軽ダム建設によって再び移転という苦難を味わうことになる*」Wikipedia

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*目屋ダム→津軽ダム工事を見つめる人141030

巨大工事には受益者と不利益を被る者との争いが付き物だ。ダムの案内板には麗々しく賛辞が並ぶばかり、移転させられる住民に感謝の一言もあってよいはずなのに記述はない。ここは世界自然遺産のブナの森である。大規模工事の負荷は最終弱者の自然に向かう。環境保護のためにあれもしますこれもしますと説明は続くが、そんな巧い話があれば誰も苦労しない。

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*津軽ダムの案内板141030

見たくないものは見ないという思想ないし無言の圧力が担当者の筆を押さえたのだろう。置かれた文字が立ち上がり怪物と化してダムの存在を否定されては困るわけだ。担当者もまた組織の中で仕事をしているわけだから気持は分かるが、良いことだらけの文言がよそよそしい。すべての物事には良い面と悪い面がある。両者を公平に描けばこのような次第だ。あとはあなたの責任でご判断くださいという情緒を排した説明が、ダムのみならず原発にも堂々と置かれるべきだ。

 

180609記

日本ところどころ⑪ 四万十川 二風谷ダム当別ダム

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*北海道沙流郡平取町二風谷の萱野茂記念館 141021

趣味のオフロードで林道を走り回っているうちに四国には、里に春はあるけれど山に秋がないことに気がついた。昔むかし額田王は春と秋はどちらが良いかと悩んだ末「秋山我は」という結論を導くのだが、高知のぼくは葉っぱが枯れ葉になる秋より若葉の春が好きだった。

この日のために買い込んだワゴン車に寝袋を積み、やっと掴んだ幸せの日々を北海道の奥山で寝泊まりしながら蔦の黄色と楓の赤の中を走った。高知だって探せば紅葉は見つかる。まあ綺麗ね。こっちにもあるぞと慎ましく秋をたのしむことはできるけれど北海道では広角レンズをどこに振っても紅葉だらけなのであった。寒暖差があるほど葉は強く発色するので北国の秋は美しい。トマトの赤はカロテノイド、黄色はβカロテンがつくる。完熟したトマト畑のような秋を見て額田王の深い悩みに共感したことであった。

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*沙流川の二風谷ダム 141021

やや迂遠な話になるが、1996年に高知市で先住民の杜会議が開かれた。外国暮らしの長い友人が主催し、屋久島、高知、京都と渡りながらマイノリティーの立場を訴える会だった。北タイの三角地帯に住むカレン族の首長、カナダ先住民の首長、北海道は二風谷ダムの近くに住むアイヌの代表を招いて自由民権記念館でパネル討論が行われた。わが家で慰労会を開いた晩、当時国会議員だった萱野茂さんの代理で来高したアイヌの方と縁側に酒を持ち出して長い話をした。

ウソかホントか知らないが、四万十はシ・マムタ→はなはだ美しいというアイヌ語説がある。1923年に出された寺田寅彦説と言われるが根拠は示されていないようだ。1983年のNHK特集で有名になった「最後の清流四万十川」はアイヌの方も知っていたからシ・マムタで話を切り出し、ところで「アイヌ語で自己紹介していただけませんか?」とお願いしたところ、なぜか氏は黙したままであった。アイヌ語は文字を持たない口承語である。日本語に同化され、アイヌ語が使える人は極端に少なくなった今、氏もまた民族の言葉を失いかけたか、既に失っていたのであろうと思われる。

萱野茂二風谷アイヌ資料館にはカタカナで書かれたアイヌ語の単語表が貼られていた。「アイヌ語を失えば、民族が長年培ってきた価値観や知識も伝わらない*」からだ。*萱野志郎館長談毎日新聞北海道版2017.03.25

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*二風谷ダム湖畔の案内板 141021

1973年沙流川二風谷の「アイヌの聖地」にダム計画が持ち上がった。「萱野茂と貝澤正の両名はアイヌ文化を守るため頑強にダム建設に反対、所有する土地に対する保障交渉に一切応じず、補償金の受け取りも拒否した。~中略~ 真の目的はアイヌ民族の現状を広く一般に認知させ、アイヌ文化を国家が保護・育成させること*」であった。結果として「札幌地裁はアイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認定」「旧土人保護法は廃止され、アイヌ文化振興法が施工された*」以来ヤマトの人間がアイヌを見る目は変わってきたように思う。それにしても「土人」などというワープロにもない言葉が20世紀末まで残っていたことに驚く。 *Wikipedia


二風谷ダムは、氏と縁側で飲んだ翌1997年に竣工している。当時の自分は北海道の沙流川もダム計画も知らなかったが、お話を伺い、それなりに市民運動をやってきた者の直感で何だか怪しい臭いがするなと思ったことだ。それから18年後、沙流川の河口からだらだらと続く坂道を上り、たいして高度を取らぬうちに二風谷ダムが見えた。四国のぼくにはダムと聞けば谷間に置かれた逆三角形のコンクリート塊というイメージがあるけれども、堤高32m、堤頂長550mの二風谷ダムを車の窓から見たとき横長の工場かなと思ったくらいである。このダムは里ダムであった。

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*二風谷ダム西側に置かれた魚道 141021

二風谷ダムの魚道には、湖水の水位変動に応じて魚道の入口を上下させるスイングシュートという仕掛けがある。魚道の階段をせっせと昇ったサクラマスが最後に気持よく湖水へ渡れるための心優しい装置なのだが、嫌味な見方をすれば、気の進まない教室へ向かう生徒諸君が階段を上りきったところで授業のベルが鳴るような気がしないでもない。


戦後復興期のダム計画が反対運動で散々な目に遭った経験からか、当節のダムはダム湖の名称を市民から募集したり、工事途中で見学会を設けたり、外観のデザインに凝ったり、後述予定の横瀬川ダムでは水を暴れさせないよう放水路を工夫したりとあの手この手で地元のご機嫌をとっている。そのこと自体は悪くないのだが、ダムの持つ意味は昔と何も変わらない。ある日突然、平和な村に工事が投げられ、住民は賛成派と反対派に別れて反目し、双方の心に傷が残るという図式だ。

「二風谷ダムは堆砂がひどく進行し、2015年3月末現在で堆砂率は総貯水量の約4割に達している*」竣工から18年で堆砂率4割だから、わずか45年でダム湖は土砂で満杯になる計算だ。ダムの実寿命は何年残されているのだろう。*流域の自然を考えるネットワーク「沙流川の今」2016年7月29日

すべての工事に利点と欠点がある。事業者は利点ばかり強調し、自然保護論者は欠点をあげつらう傾向があるわけだが、要はバランスの問題で、必要な工事はやれば良く、不要な工事は阻止せねばならない、、というのが小論で言いたいことの全てだ。

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*当別ダムによる残存地区自治会の解散碑 141022

札幌から1時間ほど北へ走ったところに当別ダムがある。日清戦争の1894年に入植が始まり、ダム建設によって自治会が解散した2000年まで106年間の歴史と共に町は水の底に消えた。「昼なお暗い原始の森」で「自然の猛威と闘いながら恵みの大地を成した」開拓民の末裔が「消え行くふるさとを」惜しむ碑文は読む者の心に切なく迫る。

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*北海道石狩郡の当別ダム湖 141022

車も電気もない原野に家族と共に移住した人々の暮らしは具体的にどうであったのだろう。昼は野を拓き、夜は梟の声を聞いて眠った人々は、流した汗とともに過去を振り返るに違いない。水の底には春があり秋があり、生きて働いて選手交代を繰り返しながら歴史を紡いだ。生れたダム湖は沈んだ町でもある。

 

180605記

日本ところどころ⑩ 四万十川 マニラ三峡ダム諫早湾

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*フィリピンバイ湖にて2002年夏

その昔マイノリティーを訪ねるツァーに誘われてフィリピンを訪れた。開発によって住処を追われる人々、山かと見紛うゴミ捨て場で働く少年、母親が海外へ出稼ぎに出て不在の少女、空き地で遊ぶ笑顔の子どもらと出会った。

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  *湖岸の工事現場2002年夏フィリピン 

湖岸の開発で立ち退きを要求された人々は強い抵抗の意志を示していたが、それで工事が止まるわけもない。補償金など知れたもの故郷を追われてしまえば悲惨な末路が目に浮かぶ、、、眉間に皺を寄せた浅黒い肌の人々が、日本から来たわれわれに鋭い眼差で工事の理不尽を訴えた。

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*川岸のスラムで洗濯する少女2002年夏フィリピン

水のある所には工事がある。工事のある所には人が住む。水が流れて低地に溜まるように追われた人々は、それなりの場で肩を寄せ合う。その住居を気安くスラムと呼んでよいかどうかは知らないが、貧困を剥き出しにした家々は日本では見たことのない光景であった。

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*カメラを向けるとポーズをとる子どもたち 2002年夏フィリピン

フィリピンはバスケットボールの盛んな国である。貧しい地区にはなぜか子どもが多く、わずかな空き地があれば籠をめがけて球入れに興じる。大人は富貴なる人々と比べ我が身の不遇を嘆くが、子どもにとっては生れた所が座標の原点だから幸せも不幸せもない。屈託ない笑顔は子どもの特権だ。

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*ゴミ袋を裂いて分別するスモーキーバレーの少年2002年夏フィリピン

少年が右手に持つのはゴミを引っかけるための先の曲がった鉤である。ハンドルに工夫があって力は無駄なく後方へ向かう。その重さ形に絶妙のバランスがあり見た目にも美しい。少年から借りてゴミ拾いの真似事をしているうちに欲しくなった。


かつて東京都江東区に「夢の島」という美しい名前のごみ捨て場があった。1950年代にはゴミから涌いたハエが手に負えなくなり自衛隊まで出動して「夢の島焦土作戦」が実行されたという。高知市三里地区にもゴミの最終処分場がある。埋め立て前はゴミが地下で発熱し煙突から白い煙が出ていたものだ。やがて満杯になるとゴミの山はラバーと土で厚化粧されツンと澄ました横顔を見せる。嫌がる住民を宥めるため行政は迷惑施設と抱き合わせで公園や運動場を設置するのが常だ。

しかしゴミを処分すると言っても所詮は物質の移動にすぎない。汚いものは見ないという思想で都市空間は設計されるが、見えない所に移されたからといってゴミが存在をやめるわけではない。そこを意識できるかどうかで人間の品位が問われるように思う。

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*人民帽とカバン、これに人民服を加えた三点セットが街を歩いていた1983夏

1983年だから35年も前の話になるが、リュックを背負って重慶の街を歩いていたとき一人旅の日本人女性が嬉しそうな顔で寄ってきた。聞けば三峡を越え揚子江を船で上ってきたそうである。「もう一週間も日本語を話していない」とかで見も知らぬ自分を懐かしがってくれ一緒に食事をしたことを覚えている。いつの日か自分も船でと願ったが、2009年に竣工した三峡ダムによって揚子江は区切られ、一気に上り下りすることはできなくなった。

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*馬踏飛燕のレプリカ

三峡ダムは「2007年時点で140万人が強制移住を余儀なくされ」「2020年までには230万人が退去予定*」というから、ざっくり四国の人口の半分が移転させられる。それを共産党政府の号令一下やってのけるとは驚きだが、採決に当たっては、全会一致が基本であるにもかかわらず反対票が多かったという。当初このダムは1000年持つと言われたが、やがて100年は持つと変わり、10年で崩壊するという説まで現れた。今年で9年目に入る。(ご興味のある方はググってみてください。巨大工事が誘発する桁外れの問題が山積みです)


工事によって居住地を追われた人々は都市へ流れ、海外へ移民し、新たな地を求めて中華民族は拡散する。世界が無限に広ければ、それは人類の繁栄とも言えるが、世界人口が70億を超えた今フロンティアと呼べる土地はどこにもない。Google Mapを開いて任意の一点を拡大すると砂漠かと思われたところにも街があるほどだ。*Wikipedia

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*群馬県八ツ場ダム建設地130531

2009年に政権を執った民主党は「コンクリートから人へ」という名文句を謳い、その矛先を工事途中の群馬県八ツ場ダムと潮受け堤防によって海水と淡水が分離された長崎県諫早湾へ向けた。結果として八ツ場ダムは一時休止されたが、2018年現在再び工事は進行中である。群馬県在住の友人に尋ねたところ今となっては「ダムの是非が地元メディアで報道されることもない」そうで、あの騒ぎは何だったのかと狐につままれた気分である。

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*宇宙から見た長崎県諫早湾干拓地 Wikipediaより(もしも転用不可の写真であれば直ちに消去します)

諫早湾干拓事業は、八ツ場ダムと同じ1952年に発案され、バブル期の1989年に着工、1997年に湾は潮受け堤防によって「ギロチン」された。当初は食糧難を解消するためコメの増産を目的としたが、やがてコメ余りの時代になり、目的は水害や塩害防止に変わった。「古い計画が目的を変えながら、ひたすら完成だけを目指す止まらない公共事業*」だ。*高田泰「諫早湾ギロチンから20年深まる混迷と対立でいまだ出口見えず」

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*長崎県諫早湾干拓地 Wikipediaより(同上)

この高さから干拓地を見ると普通の農地かなと思ってしまうが、左の密集した民家をカットアッドペーストすれば町がすっぽり入ってしまう。八郎潟干拓地や北海道の農地なら普通かなという区割りだが、高知ではあり得ない広さだ。車を停めて堤防沿いに歩くと遥か彼方に目標物が霞む。長すぎる直線に置かれた自分が小さく見えて淋しい。

農地の中央にある白い建物はとんでもない規模のトマトハウスである。覗いてみるとミニトマトが一棟、あとの棟は大玉を主体に栽培していた。ウチのハウスは中玉を植付けたばかりだったので同業者の事情が気になり、夏のハウスから汗まみれで出てきた従業員に「中玉はやらないのか」と尋ねたら怪訝な顔をされた。その意味はやがて痛いほど分かった。

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*遊水池から見た潮受け堤防東岸140908

かくて干拓地は広大な農地となりタマネギ、ジャガイモ、トマト等の供給地になった。一方、潮受け堤防によって遮断された海側では異変が起き、ノリの養殖に影響が出、魚類貝類の漁獲量は急減した。それが「ギロチン」と関係があるかどうか、専門家の間では議論が続いているようなのだが、衛星写真を見れば海と干拓の関係は素人目にも明白だ。

他の湾岸と同じく諫早湾もまた江戸の昔から人力・馬力のペースで干拓、埋め立てが続いてきたのだが、人為が自然と馴れ合う長い時間を無視し、鉄の板で一気に海域を塞いでしまえばどうなるか、、、漁業者は開門を迫る。農業者は開門を恐れる。

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*雑草が繁茂する遊水池から見た潮受け堤防西岸140908

いわゆる専門家は、分かりきったことを、素人を寄せつけないほど難しく議論するのが好きだ。実は誰が見ても一目瞭然だから、その気になれば簡潔な言葉を置けるはずなのだが、ある大きな意図の下で彼らは自由な思考が封じられているのだろう。それは諫早湾のみならず大工事に共通して見られる傾向である。素人が何かを問えば、それは自明の理でしょうがと冷笑を浴びせられて悲しい。

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諫早湾140908

有明海佐賀県、福岡県、長崎県に面している。佐賀地裁福岡高裁は海を守るため開門せよとの判断を下し、2010年元市民運動家菅直人首相は、上告を断念(開門を支持)した。ところが地元の長崎地裁は既に造られた農地と農業者を守るため「開門差し止めの仮処分」をした。海域の変化によって漁業を台無しにされた漁民と遊水池に塩水が入り農業が成り立たなくなることを恐れる農民の対立は、諫早湾を越えて有明海に及び、佐賀福岡対長崎の司法の対立にまで拡大したわけだ。

慎ましくも豊かに暮らす人々の前にカネと工事が投げられた。暮らしを脅かされた人々はそれぞれが違う方向に誘導され争いが起きた。行政と司法が絡み、立法府の長まで登場して激論は続く。

戦後復興期の1952年に計画された八ツ場ダムと諫早湾干拓事業はたまたま自分と同い年だ。技術力が爆発的に進展し、世界がネッワークで結ばれ、有り余る工業力が人類の生存さえ脅かし始めた異様な時代の一コマである。

 
180603記 

日本ところどころ⑨ 四万十川 戦後復興期のダム計画

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*頓挫したダム計画 高知県内水面漁協連合会「土佐の川」1992年刊p129より

個人史を持ち出して恐縮だが、ぼくは戦後復興期(1945~1954)に生れ、高度成長期(1955~1973)に中学、高校、就職、浪人、大学をやっつけ、安定成長期(1974~1984)に宿毛市土佐清水市中村市四万十市)で働いた。急激な円高が始まるバブル期(1985~1990)には、趣味のオフロードバイクで林道を走り、おっとこんな山奥にもコンクリートがあるのかよと驚いたり、眼下に広がる山々をスギ・ヒノキの植林が埋めつくす様を見て森とは何かと考えさせられたものだ。

「秋の夕日に照る山もみじ」はレンズを透かして局部的に切り取る他なく、「小鮒釣りしかの川」といっても、もはや昭和30年代に祖父と一緒に釣り糸を垂れた池も川も存在しない。今となってはアウトドア雑誌を開いて本物の森を空想する他ないのだろう。たった一人の人生時間の中で野山はどんどん姿を変え、バブル崩壊後の「失われた10年」は、いつしか20年を過ぎ、30年に近づいた。


高度成長期には普通預金金利が3%、定期貯金は何と10%を超えることもあったという。高校生のころ商業科の友人が「金利8%で5000万円寝かしたら10年足らずで倍になる。余裕で暮らせるぞ」と嬉しげに説明してくれたが、いくら金利が高くても元金というものが要るわけで貧しい農家の伜には縁のない話だった。しかし今にして思えばあれが高度成長というものだったのだろう。ろくに字も読めず四則演算だって怪しい母が、大八車を引いて松田川の河口で採った青海苔を出荷し、壁の前でじっと通帳を見つめていたのを覚えている。


東京でしがない浪人生活をしていたころ池袋の本屋で1972年刊「日本列島改造論」を見た。得意気に顎をしゃくり、だみ声でまくし立てる田中角栄が官僚に作らせた本だ。列島を改造するという神をも畏れぬ題名に政治家と土建屋の無神経を感じ手に取ることはなかったが、もしも当時の自分に幾ばくかの資金があり、文学部などというカネにならない学科ではなく経済か商学を志しておれば、田中角栄の言説を徹底分析し幾ばくかの財を成していたかもしれない。列島改造の結果、自然が壊され、地域住民が古里を失うことになっても痛痒を感じないのであれば、投資のストライクゾーンはとても広い時代だったからである。


戦後のダム計画を年代順に並べると以下のごとくである。戦後復興期からバブル期に至るまで、窪川原発を挟み、四万十川上流にはダム計画が次々と現れては消えたが、下記年表(田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」より構成)を見るかぎり反対運動はバブル期を境に前半成功、後半失敗という傾向が見える。

 

1950~63 大野見村松葉川村栗の木ダム→志和又は興津に落とす→海へ流す(中止)

1950~63 大野見村久万秋上ダム→新庄川に落とす→海へ流す(中止)

1958~63 大正町瀬里ダム→海へ流す(中止)    

1958~63 大正町田野々ダム→瀬里ダムと繋いで佐賀町へ落とす→海へ流す(中止)

1964~79  梼原ダム(中止)

1977~   梼原ダム→愛媛分水(中止)

1973~88 窪川原発(中止)

1984~89 大野見村島の川ダム(中止)

1986~89 津賀ダム撤去運動(失敗)

1982~98 中筋川ダム(完成)

1998~01 家地川ダム撤去運動(失敗)

2009~   横瀬川ダム(建設中)

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*梼原川の津賀ダム140828

上記一覧「大野見村松葉川村栗の木に堤高100mのダムを建設し志和または興津に落とす案」と「大野見村久万秋上にダムを建設し須崎市の新庄川に落とす案」は、家地川ダムと同じく、電気と引き換えに四万十川の水を海へ捨ててしまう荒々しい計画である。戦後復興期には何としても電力が必要で、そのためには地方の暮らしも山間地の自然も眼中にない時代であった。

栗の木ダムは何と「最高出力67万kw」を予定していたという。伊方原発1~2号機が56万kwだから原発並の大出力である。津賀ダムが1.8万kw、早明浦ダムが4.2万kw、徳島県長安口ダムが6.2万kwであることに比べ俄かに信じられないほどの大出力だが、黒部第四ダムが33万kw、揚子江を塞き止めた三峡ダムが1基70万kwのタービン×32基=2250万kw→理論的には大型原発16基ほどの出力を持つというから、ダムの目的を発電に絞り、導水路で運んだ水を太平洋へ捨てる覚悟なら、あるいは可能であったのかもしれない。もしも「67万kw」が6.7万kwの間違いであればすぐにも納得できる数字だが、この件詳しい方がおいでたらぜひお教え願いたい。(引用「」は田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」より)

これらが建設されると「大野見村の大部分が水没し、松葉川村や梼原町まで被害が及ぶので村役場が主導する村ぐるみの反対運動が展開され、計画は1968年頃には消滅した。」その後も年表のごとく反対・撤去運動は続くが、日経平均株価がピークを指した1989年を境に、いつしか建設は再開され1998年には三原村に中筋川ダムが完成し、さしたる反対運動もないまま2018年現在宿毛市側に横瀬川ダムが建設中である。いま四万十川水系には8つのダム・堰堤がある。

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*高知県内水面漁協連合会「土佐の川」1992年刊p129より

上記「四万十川とダム問題」をぜひお読みいただきたい。戦後の焼け野原から立ち上がった官僚は国の為によかれと願ってダム計画を練ったにちがいないが、暮らしの場がダム湖に沈められる地域住民はたまったものではない。役場主導の村ぐるみで反対運動が展開され、「各部落から集まった人々は腰にノコギリ、手に鎌を持ち、目は怒りでギラギラさせ、建設阻止に強い団結をみなぎらせていた」(高知県内水面漁協連合会「土佐の川」p130)という。「十和村の人々は1932年と1937年の満洲開拓で悲劇を体験し、それ以来国に対する不信感が強い」(田淵直樹「家地川ダム撤去運動への視点」)ことから死地を潜った者が持つ迫力で官と対峙したのであろう。追い詰められた人々の反ダム闘争は環境以前に生活防衛だったのである。

180521記(つづく)

日本ところどころ⑧ 四万十川 家地川ダム

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*四万十川は大きく蛇行(曲流)する

四国を横に走る三本の構造線のひとつに仏像構造線がある。その南側の地層が幡多地域から高知沖を抜けて世界ジオパークの室戸につながる四万十帯だ。仏像も四万十も高知由来の名称だから妙に嬉しい気持がするのだけれど四万十帯が深海でつくる南海トラフが揺れ、海が盛り上がったら怖い。

土佐清水市から柏島に向かう海岸線には、海底で寝ていた地層がプレートの圧力を受け折り畳まれて立ち上がった物凄い造形が連なる。あれは地震の化石なのだろう。釣りに夢中だった若い頃は何の印象も残さなかった風景なのだがトシのせいか自然ってえらいものだとしみじみ思う。

フィリピン海プレートが潜り込むと付加帯が削られて山地をつくる。地層は歪み、大地は隆起し、何億年だかを経て四国の山々は山地になった。高知沖の高いところにビデオを仕掛け1億年ほど回して高速再生すれば、石鎚山系から剣山系につらなるシワシワがどのようにして出来たのか手に取るように分かるだろう。あの鬱陶しい防犯カメラを造山運動監視カメラに変えて録画しておけば後世の高等生物に喜ばれるかも^^!

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*四万十川にはダムが6つ+中筋川にも2つある

室戸周辺の川はシワシワの山と平行に流れてほぼ直線だが、四万十川中流域で大きく蛇行(曲流)する。「地盤の緩慢な隆起と、豊富な水量と、基盤の複雑な地質構造がその原因であろう」(福武書店「博学紀行.高知県」)。四万十川が西に回り込んだ四万十町(旧窪川町)は標高230mほどの高台にあり、原発設置で揺れた興津周辺では標高500~600mほどの山の斜面が海へ落ち込む。インド亜大陸ユーラシア大陸に衝突してヒマラヤを造ったように、原理的には似たようなプレート活動が続いているのだろう。2018年2月8日台湾東部の花蓮市を襲った地震フィリピン海プレートの潜り込みによるものだ。

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*佐賀取水堰→家地川ダムは落差わずかの堰堤だが、、180427

四万十川は江川崎で愛媛側と分岐し、大正町で窪川側と梼原側に分かれる。「最期の清流」四万十川にはダムがないので源流から河口までカヌーで下れるというのがウリだけれど支流の梼原川には立派なダムがあり、本流の家地川にも佐賀取水堰=家地川ダムがある。しかしダムの定義は「高さ15m以上」なので家地川ダムは堰堤なのだ。したがって四万十川本流にダムはないというロジックが成り立つ。馬を指して鹿だと言い募った故事のごとくで知人のナチュラリストが「ワヤにすな」と憤った。

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*魚のみなさんはここから昇りなさいという魚道180427

担当職員に「アユの遡上は見られますか?」と訊ねたら特に問題なさそうな口振りであった。しかし別の土木家によるとアユの知能は人間で言えば幼児なみで昇り口が探せないものもいるようだ。上から見下ろす人間は、そこから上がればいいじゃんかって思うが、なんせ鮎は水の中にいるもので、、、閉じられた系の内部から系の外部を想像することは大変な知力を要するのである。どのダムも魚道は折り畳んだ階段状にされて悲しい。デザイン的にも今すこし色つやのある設計ができないものかと思う。

2018年現在、家地川ダム=佐賀取水堰の下流は写真のごとく魚が泳げる程度には水を湛えているが、かつては干からびた涸れ川であった。90年代にダムの矛盾が語られ、2001年の水利権更新期に合わせてダム撤去運動が行われたこともあり「河川維持用水の放流量が1t/sから最高3.40 t/s」まで引き上げられた」(水資源・環境研究Vol.22 2009「家地川ダム撤去運動への視点」田淵直樹)ことから今はそれなりに川の風情を保っている。

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*長閑な春の日の堰堤上流。手前は葉桜の並木180427

川を完全に塞き止めてしまうと下流は水無し川になる。上記地図で言えば、家地川ダムから津賀発電所の放水路まで岩肌が露出した砂漠となってエビもウナギも棲めない。山間地の住民から清流を取り上げたらいったい何が残るのだろう? 子どもは水遊びができず、挨拶代わりに「鮎はとれたかや」と問う村人の声も消えてしまう。洪水時には濁水が続き、下流域での汚れの原因ともなる。生物系の学者は遠慮なく声を上げるべきなのだ。数式と無機物で固められた土木家を説得するのはとても難しいであろうが、机を叩いてペットボトルを倒すくらいの気合が欲しい。

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*佐賀発電所180427

その取水堰から導水路が引かれ147mの落差をもって四万十川の水は別水系の伊与木川に落とされる。問題はその後だ。通常ダムの水は同水系で再利用されるが、家地川ダムは落差で電気を取ったあと佐賀の海へ流してしまうのである。水がお金で説明できるとは思わないけれど捨てた水と作った電気を料金換算すれば得なのか損なのか? 
 
高知県の年間降水量3659㎜は、2位の鹿児島県2834㎜を大きく引き離してダントツの1位である。(都道府県格付研究所) 四万十川には水が溢れているから少々捨てたって問題なかろうという水に対する甘えの思想で家地川ダムは設計されているのだが、ちかごろは輸入野菜を真水換算すれば乏しい水資源の収奪になるという考え方もあるくらいで、もはや真水は只ではない。高知平野は施設園芸が盛んな所だが、地下水を汲みすぎて地盤沈下が問題になっている。香南市にあるウチの施設は上流の貯水池から農業用水を引いているが、供給量が限界に達して新規参入が難しくなってきた。「日本人は水と安全は只だと思っている」という名言を残したのはイザヤ・ベンダサンだが、水も安全も昔のままではないのである。

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*放水路から大量の水を得た伊与木川はまっしぐらに海へ向かう180427

家地川ダムは戦争の足音が聞こえる1937年に完成し、作った電気は愛媛県のアルミニウム工場に送られた。豊かな森から滲み出る水が川に溢れていた当時、環境保護という概念は薄かったであろう。軍事政権下であれば尚のこと反対運動はあり得ない。敗戦の前年1944年に完成した梼原川の津賀ダムも同様であったかと思われる。以下は戦前、四万十川に建設された6つのダム・堰堤である。

 1923年松葉川堰堤(旧大野見村)

 1930年梼原川第三堰堤(梼原町中平)

 1937年初瀬ダム(梼原町初瀬佐渡

 1937年家地川ダム(旧窪川町)

 1937年梼原川第一堰堤(梼原町川口)

 1944年津賀ダム(旧大正町古味野々)

 
180515記(つづく)

 PS
人工知能みたいなAiさんご心配をお掛けしました。4月からこちら月曜日と日曜日がつながって間の記憶がないという毎日です。秋からかれこれトマトを30万個も詰めました。高知市の人口を赤くて丸っこいお人形さんにして片端から箱詰めしたらこんだけあるんだと、、おかげで人口という抽象が掌で実感できました。

某編集長にホガされ木に登る代わりに四万十川を上ってやっとダムまでたどり着きました。知っているようで知らないことってあるものでだいぶ勉強しましたが、知れば知るほど分けが分からなくなります。台湾旅行の目的はみんなに愛された八田与一のダムを見ることでした。かたや川を汚すだけだからさっさと壊せと言われる家地川ダム、津賀ダムって何だろうと考えているうちに熊本県民は2018年3月、球磨川の荒瀬ダムを壊してしまいました。ダム撤去第一号の名誉?は熊本に持っていかれたわけです。ダムは土砂が堆積し50年でダメになります。本格的なダムを撤去した事例は世界のどこにもないはず、原発みたいなものでその後どうすればよいかはまだ誰も知りません。「緑の砂漠」の人工林を含めバイクで山道をとことこ走っていると悲しいものがいっぱい見えますね。四万十川はもうちょっと続いて台湾へ戻ります。助村